「perokun」です。
格好にこだわる人は結構多いのではないでしょうか?
もちろん格好にこだわる人、格好付ける人が悪いといっているわけではありません。
何が大切なのか、格好にこだわらない「自分」を持っている人は心が豊かでカッコいい!という話です。
「こころ」がある人ない人
ある心理的に病んだ人で、ものすごく虚栄心の強い人がいます。
彼は大きな庭のある家に住んでいることで得意になっているのです。
自分の力で持った家ではなく、親からの遺産です。
その人が今度は犬を飼おうと考えはじめたのです。
そんな大きな庭に血統書つきの犬がいたらすごいぞという考えです。
もちろん犬が好きだから飼うのではないのです。
こんな庭にこんな犬を飼っているという経験を持ちたいのです。
まさに「かたち」というものです。
まず彼は、いかにして血統書つきの犬を手に入れるかを考えました。
そこに目をつけた人が彼に血統書つきのコリーを買うことをすすめたのです。
彼はすぐにその血統書つきの犬を買いました。
そして「どうだすごいだろう」と世間に向かって得意になっていたのです。
まさに復讐的勝利です。
そして彼は毎朝その庭で体操をしていました。
毎朝犬と会うのであるが、犬との「こころ」の交流がないのです。
ジョンという名の犬はまったく彼になついていないのです。
彼が朝、庭に出ていっても犬は喜ばないのです。
信じられないことであるが、犬は喜ばないのです。
犬のほうは「こころ」があるから、
たとえ毎朝会っていても、「こころ」のない人を見て喜ばないのです。
そしてそのことを彼のほうは不思議にも思いません。
彼も犬との心のふれあいを求めて飼ったのではないから、それにショックを受けません。
犬は「こころ」のある人とない人とを正確に見分けます。
その家のそばを夕方通る人がいます。
ジョンという名の犬は、その人にしっぽをちぎれんばかりに振って体全体で喜びます。
その通りがかりの人はその犬を見て「ジョン、いたのか。元気だな、よかったな、ジョン」と話しかけるのです。
犬と心のふれあいがあるわけです。
その人は地位も名誉もお金もない人です。
しかし「こころ」があるのです。
「こころ」がある犬好きな人
ある犬の好きな人の話です。
雑種の犬を飼いはじめました。
犬を飼うことを許してくれるマンションを探し求めて、そこにいつも住んでいます。
犬の好きな人はべつに雑種であろうが、血統書つきの犬であろうが、自分がかわいいと思うことが大切なのです。
彼にはいくつかの分譲マンションを買える可能性のあるときもありました。
しかしそれらの分譲マンションは、皆犬を飼うことを許してはくれないマンションでした。
そこで犬を飼うことを許してくれるマンションを借りて住んだわけです。
収入としては分譲マンションを購入する人と違わないのだけれども、遂に彼は一生マンションを買わなかったのです。
犬と別れて分譲マンションを買うくらいなら、そんなマンションはいらないと考えたわけです。
彼は犬を手放すくらいなら、一生犬と一緒にマンションを借りていたいと思ったのです。
そんな人もかなりいます。
犬が好きで一生マンションを買わなかった人は、血統書つきの犬を飼っていることが大切なのではないのです。
犬が好きで、自分の好きな心やさしい犬を飼うことが大切なのです。
これが「こころ」です。
「かたち」と「こころ」の違い
先の「こころ」のない人は犬を飼いながらも、犬と遊んでいるよりも、周囲の人からちやほやされることのほうが楽しい。
犬の好きな人は人からちやほやされるよりも、好きな犬と遊んでいるほうがずっと楽しい。
しかし自己蔑視してしまった人は、
大と遊んでいるよりも、人からちやほやされることのほうが嬉しい。
何よりも嬉しいことは自分がほめられることである。
そういう人が犬を飼うのが「かたち」です。
「かたち」にとらわれない「こころ」を持った人間になりたいですね。
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