本当は自分を出してしまったほうが愛される。感情を出したほうが好かれる。
そんなこと思ったことありませんか?
適応した子供は、愛されるためにはお行儀よくふるまうことだと思いこんでいる場合が多いです。しかし、無理をしていない子供のほうが「子供らしいかわいらしさ」があると思いませんか。
愛されることと気に入られることの違いと良い子を演じる勘違いについてお話しします。
「愛されること」と「気に入られること」の勘違い
神経症的な親は
子供に過剰な愛を求めて子供を窒息させるか、逆に子供を放任してしまうのです。
つまり、子供をどう愛していいのかわからないのでしょう。
神経症的な人は愛を知らないのです。
だから親子の関係でも、どう子供と対応していいのかわからないのです。
そこで、子供は神経症的な親への対応のしかたのひとつとして、お行儀よくふるまうことを選ぶのです。
子供は子供で心理的に健康な人から「愛されること」と、その場で無責任な人から「気に入られること」の違いがわからないのです。
その場で無責任な人から「気に入られること」を、心理的に健康な人から「愛されること」と勘違いしてしまうのです。
だからこそ「よい子」は、大人になっても心の底には何も残っていないのです。
外側は格好がついているかもしれないが、中身は空っぽなのでしょう。
心の空虚感をどうすることもできません。
誰からも本気で愛されたことがない・・・
どこかの学者はうつ病者について、その特徴は「必要と空虚」だと述べています。
まさにそのとおりです。
「よい子」は確かに一生懸命生きています。
しかし、あとに何も残らないのです。
大人になっても何も残っていないのです。
その人が困ったときに助けてくれるような人は周囲にひとりもいないのです。
その人を本気で愛する人もいない。
その人と深い心のつながりを持っている人もいない。
自分が本当に好きなものもない。
心にしみる体験もない。
心の支えになるものもない。
もう一言います。
「よい子」は確かに一生懸命生きているのです。
しかし、あとに何も残っていないのです。
「よい子」は無理してお行儀よくふるいます。
しかしただそれだけなのです。
「よい子」は一生懸命に勉強しました。
しかしただそれだけなのです。
「よい子」は一生懸命に親の手伝いをしました。
しかしただそれだけなのです。
「よい子」は先生にも友だちにも笑顔で接した。
しかしただそれだけなのです。
無駄を嫌いながらも、そのような無駄な生き方をしてしまっているのです。
ホンネを言わないからコミュニケーションが成立しない
神経症的な人の周囲にはその人を利用しようとする人が集まり、彼が神経症から立ち直ることを望んでいないというのです。
私は精神分析の本でこのような事実を知って衝撃を受けたのです。
それからそのような観点で人の集団を見てみると、本当に神経症的な人の周囲にはひどい人が集まっているのに気づくのです。
よくもここまでと思うくらい冷たい人が集まっているのです。
まともな人がいないのです。
これでは神経症が治るわけがないのです。
神経症的な人はその冷たい人たちに気に入られようと、必死になっています。
お互いに「こころ」がないのです。
コミュニケーションが成立していないのです。
つまりそこには心の交流がまったくと言っていいほど存在しないのです。
だから必死に真面目に生きているが、その人生には何も残っていないのです。
本当に何も残っていないのです。
無理なダイエットをすると骨がぼろぼろになるといいますよね。
それと同じなのです。
「よい子」が大人になって人生を半分以上過ぎた頃、その人生は外側だけで、なかには何も
ない状態になるのです。
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