こんにちは!「perokun」です。
真面目なわりにはなぜかうまくいかない。出世を心の底で望み、真面目に働きながらも、なかなかエリートコースに乗れない。
そんな経験や話を聞いたことあるのではないでしょうか?
ほとんどの人が「かたち」だけのつきあいに不満を感じているのです。
今回は、コミュニケーション能力は「心」が必要!障害と不足は「形」が原因!という話です。
「こころ」の存在が無視されているコミュニケーション
ある大学での話です。
ある教授が還暦を迎えました。
そのときに弟子のひとりが還暦のお祝いをしたいと教授に申し出たのです。
教授は「いいよ、そんなことしなくて」と照れて言ったのです。
「言った」という表現よりも「言ってしまった」という表現のほうがいいでしょうね。
その教授も内心は還暦のお祝いをしてもらいたかったのでしょう。
照れていただけなのです。
ところがその弟子が「かたち」だけの人であるから、教授の言葉をそのまま受け取ってしまったのです。
後に述べるように「かたち」だけの人は言葉に弱い!言葉にだまされる!
言葉の裏にあるものを察知できないのです。
そして還暦のお祝いをしなかったのです。
弟子にしてみれば「自分は還暦のお祝いをしましょうか?」と申し出た。
すると「しなくていい」と教授が言った。
だから「しなかった」のである。
言葉としてはそのとおりでしょう。
残念ながらそこに「こころ」の存在が無視されているのです。
もし本当にその弟子が還暦のお祝いをしたければ、あるいはする気があれば「先生、還暦のお祝いをします」と言ったかもしれない。
「しましょうか?」というのは「しない」ことでもあるのです。
する気があれば「します」である。
するとどうなるか?
還暦を迎えた教授は「あんなに面倒を見てあげているのに、還暦のお祝いもしてくれない」とその弟子に不満を感じるようになるでしょう。
弟子のほうは弟子のほうで自分は「還暦のお祝いをする」と言った、となるでしょう。
「それなのになぜか最近教授は冷たい」とおもしろくないことになるのです。
自分をアピールしているに過ぎないコミュニケーション
続いてその教授がある賞をもらいました。
その頃、いろいろと複雑なことがあって、弟子の間が割れていました。
しかしその弟子はその教授の賞のお祝いをしようとしたのです。
しかし自分は年齢、その他の序列からいうと一番弟子ではない。
そしてその一番弟子たちが動かない。
そこで彼は直接に賞をもらった教授に話をしようとしたが、それもうまくいかない。
またしても同じ間違いを犯すのです。
要するに彼には「こころ」がないのである。
「そこまで苦労してもする」気にはなっていないのです。
彼が「こころ」ということを理解していれば「そこまで苦労してもする」気になったであろうことなのです。
彼は周囲の目上の人にあれこれとしようとする。
しかしすべて成功しない。
そのことを「心から」しようとしていないからです。
その弟子にしてみれば「自分はいろいろと周囲の人の世話をしている」つもりでしょう。
それなのになぜか、周囲の人は自分を熱烈に支持してくれない。
なぜか周囲の人は自分に好意的ではない。
「世のなかなんて、こんなものだ」とすねはじめる。
「自分はこんなに皆のことをしているのに、皆は冷たい」ともなる。
この弟子が自分には「こころ」がなかったということに気がつかない限り、「なんかうまくいかないな」という不愉快さは、彼の人生に続くでしょう。
その弟子のすることは、皆「一応・・・」なのです。
一応、それをして自分をアピールしているに過ぎないのです。
彼は周囲の人を世話しているというよりも、自分をアピールしているに過ぎないということにも気がついていないのです。
もっときつい言い方をすれば、彼は「もっとも楽な方法で自分を売っている」のです。
ただの「かたち」を示す「こころ」のない人
よく「もう失礼します、失礼します」と言いながら長居をする人がいます。
「お茶は結構です」と言いながら、いつまでも帰らない。
遠慮深いのか、ずうずうしいのかわからない。
こういう人はたいてい「こころ」のない人です。
「お茶は結構です」「失礼します」と、ただの「かたち」を示すのです。
こういう人にはならないように心がけましょうね。
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