中年はよく読んどいて!離婚・子育て・左遷や減俸など中年危機(クライシス)をどう生きる?

暮らし・生活

 

こんにちは。「perokun」です。

中年クライシス(危機)という言葉を聞いたことがありますか?

中年には危機がいっぱいです(笑)

男女ともに肉体的変化や社会的の地位や役割、家庭内、長寿社会という状況も中年クライシスにあたるでしょう。

今回は、中年クライシス危機がいっぱい!!離婚・子育て・左遷や減俸など中年危機についてどう生きる?について話してみようと思います。

スポンサーリンク

どんな家族にも危機は訪れる「中年の危機」

f:id:akap-perokun:20170811123240p:plain

中年夫婦の危機というケースで言うと、私は、相談に来る人に「心の中で離婚して再婚」することを勧めています。

一度はいやになっても、そのうちにわかることを見つけて理解を深めていくこと!

 

どんなにうまくいってるように見える夫婦でもどこかに不安定な部分があるもんなんです。

結婚してから50年も60年も何のガタもきてない、なんて考えられません。

そんなのがおったとしたら、たいていは近所か親戚が迷惑しとるはずやと思いますよ。

 

大切なのは、そのガタガタをどう体験するかなんです。

それが突然やって来る例としてわかりやすいのは、外から力が働いたときなんです。

 

たとえば

親戚の子が大変な放蕩を尽くして、金を無心に来てすぐに出ていったとします。

すると夫婦で喧嘩にはなりますね。

でもそれは夫婦の中の問題やない。

悪いのは外部にいるわけやから。

だから、相談に来る人にも「親戚に悪いのがいて」なんて持ちかけてくる人がいるんですが、

そういうときは

その人のおかげであんたら夫婦は安泰なんだから、あんまり怒ったらいかんよ」というんですが。

そういう人生の中の″マイナス″はいつでも起きるんです。

 

事故や病気、いろいろあります。

このごろ多いのは子どもが「おかしく」なることです。

登校拒否とかもそうです。

 

でもこれは「お父さん、お母さん、中年の危機を意識してないとだめよ」という子どもからのメッセージだと考えるべきです。

子どもが問題を起こすと、夫婦は会話せざるを得なくなるんです。

 

そらそうでしょ。

子どもが急に学校に行かなくなったら父親が母親に文句をいうし、それに対して母親も「子どもに無関心なくせに」とやりかえす。

そうするとそこで初めて夫婦の会話が成立するんです。

 

会話といっても喧嘩ですね。

喧嘩や衝突のない変化なんてないんです。

喧嘩して夫婦間できちんと決着がついたら、子どもはぱっと学校へ行くようになりますよ。

これは、もう見事なもんです。

子どもだって知ってやってるわけないですよ。

自分を包んでる空気を敏感に感じているんでしょうね。

スポンサーリンク

喧嘩と葛藤が理解を深める

f:id:akap-perokun:20170813140934j:plain

日本人が間違いやすいところですが、「平和」というと何の戦いもないと思ってしまうんです。

でもそれは違っていて「戦いがあって平和がある」というか、夫婦でも家族でもつねに「対決」がどこかにあるもんなんです。

それを乗り越えて初めて変わるんだけど、たいていは回避してしまうんです。

 

それで「ウチは平和」だと思い込んでると、そのうち重大な出来事に遭ってしまう。

子どもが社会に出ていけなくなったりとかもそうです。

 

カウンセラーは、戦いのために人の話を聞いているようなもんですよ。

カウンセリングで話を聞いているうちにだんだん戦いが起こってくるんです。

もちろん相手のことがある程度見えていることは前提ですよ。

 

たとえば

子どもの話を聞いていると、しゃべっているうちにだんだん元気になり、そのうち父親なりと対決する力がついてくる。

それで家に帰って父親とやりあったら、こんどは親父が乗り込んでくる。

うちの息子にどうゆうたんや」と。

 

その人も自分のことばしゃべってるうちに表現が強くなっていくんですね。

そうして親子で何度もぶつかっているうちにちゃんと変わっていくんですね。

相談者の中には「私がこんなことを言うなんて、思ってもみなかった」なんて言う人もいます。

 

しゃべってるうちに、最初は思ってもみなかった強いことばが出てきたりするんです。

そのうち、「私はこんなことを考えていたんだ」と気がつくわけです。

それとね、ことばで一言ってしまうことによって、反省が起きる。

 

たとえば「あんな親父、いらん!」なんて子どもがいう

私が「うんうん」と頷いてると、次に「まあ、学資を出してんのは親父ですけど」なんて言い出す(笑)。

 

その子はわかってはいるんですが、ただ「いらない」という意識を押さえているんです。

心の中で葛藤が起こらないと成長しないんですが、どこかでごまかしてる。

だから「いらない!」なんて言っても、すぐに反省が起きるんです。

要は自分の心の中の葛藤が大切なんです。

 

「葛藤保持力」とでもいいますか。自分がその葛藤をぐっと抱えていく力。

これが大事なんです。

 

どんなことでもそんなに簡単に答えは出ないでしょ。

下手な人ほどどちらかを捨てて答えるんです。

簡単に答えを出してしまうんじゃなく、自分の中でガンガン鍛えていくことが必要なんです。

 

中年夫婦にしても

きちんとぶつかって、やり合いながらも

「こうしていることにも意味があるんだ」

という気持ちが心の片隅にあるかないかの差が大きいんです。

 

逃げたら終わりなんですけど、まあこれが難しいところで、たまには逃げでもせんとたまらんことはあります(笑)。

ちょっと旅行に出かけたり、しばらく実家に帰ったりするわけです。

それでまた第二回戦、第二回戦をやるかどうかです。

 

「離婚・再婚」といいましたけど

一度はそれくらいに離れて、それからじわじわと近寄っていくことです。

それもただ仕方なく帰るんやなくて、理解を深めて帰ることが大切ですね。

スポンサーリンク

中年になってわかる本当の結婚!「熟年離婚」本当にするの?

f:id:akap-perokun:20170813141415j:plain

そして夫婦の間でも「新しいもの」を発見しないといけない

 

いままで通りやと疲れてくるし飽きてもくる。

そのときに、新しいものが欲しいから、たとえば次々に新しい異性と付き合ったとする。

でも、これは表層の付き合い。

 

同じ人と続けるためには、相当深く掘らないと新しいものは出てこないんです。

一概に言えませんけど、離婚はすべきでないという戒めにも一理はある。というのは深く掘り込んで出てきたものは、次元が違うんです。

これをやり抜くと、夫婦ってものすごく面白いものです。

 

悩んで、葛藤して、得たものにはそれなりの成果がある

それから夫婦というのは面白いもので、似たところと、相反するところがあるんです。

似たところというのは安定する

 

お互い納得しあえるでしょう。

ところがあんまり似すぎていると面白くなくなってくる。わかりすぎて刺激がなくなる。

それに比べて「相反するところ」は発展の可能性があるんです。

「なんでこんなに違うのか」と考えるうち、思考の範囲が広がっていくんです。

ただ相反するところが強すぎたら壊れてくるけど、そこで頑張って、うまく関係を結んだら結果は大きくなってくるんです。

 

たとえ話で

夫婦っていうのは川の中に立ってる三本の杭みたいなもんや。近いとその間に網を張るのは簡単やけど、収穫は少ない。遠いと網はなかなか張れないけど、できたら収穫が大きい」とよく言ってるんです。

 

ところがあるときこんなことをいう人がいました。

非常によくわかりました。でも、うちの主人は隣の川に杭を打ってるんです」と。

これはやられました(笑)。

 

確かに中年になって葛藤や、喧嘩や、というと気の重いもんですが、考えようによっては面白い。

若いときとは″味″が違いますよ。若いときはまだ上の空でやってますから。

「本当に結婚できた」という感じがするのは中年でしょうね。

 

若いときはうまくいってるように思うけど、それは「のぼせ」なんですよ。

もっとも、そのときにのぼせてなければ面白くもないんですが、本当の夫婦関係は中年期にやってくるもんです。

ただ「のぼせ」の期間は、危機が来たときの支えにはなるんです。

スポンサーリンク

中年世代はチャンスでもある

f:id:akap-perokun:20170813140955j:plain

子どもが大人になるときは、近代以前にはどこにでも通過儀礼がありました。

日本では元服がそうです。

その元服の儀式では前髪を切るんですが、あれは首を切ることを表わしているんです。

ここで牛若丸が死んで義経になるんだと。

 

子どもが一度死んで、初めて大人になるということを表わしていて、世界には本当に命がけの儀式をやってる例もあります。

これが行なわれていた、あるいは現在でも行なわれている社会とは、先祖か神様がつくった「不変の社会」なんです。

 

進歩も発展もないけど、ちゃんとできあがっているから、そこに入れてもらうには、命がけの試練でも経ていないことには許されない。

 

ところが近代では「社会は進歩する」と、みんなが思ってる

そうするといつでも社会が動いてるわけですから、どこから大人の世界に入っていいのかわからない。

一度大人になったと思っていても社会が進んでしまった時点で認められなくなる場合がある。

たとえばそろばんが上手でも電卓やコンピューターが導入されたら、いっぺんに必要とされなくなる。

 

「社会が進歩する」とみんなが信じる社会では通過儀礼はなくなってしまったんです。

できなくなった。これは近代社会の特徴です。

スポンサーリンク

そうでない社会では、長老が大人にしてくれるんです。

失敗したら死んでしまうけど。これはわかりやすいんです。

 

ところが近代社会においては、誰かが大人にしてくれるわけではない。

その代わり、各自がどこかで通過儀礼をやってるわけです。

 

成人式に遭遇する。

それがいつなのか、みんなよくわからないわけです。

 

通過儀礼っていうのは、どこかで危機や恐怖があるんですね。

それを人はマイナスだと思うんですが、マイナスの形をとってしか出てこない。

そのときに、あなたのやったことは意味があることですよと、だれかが言ってあげることが大切なんです。

 

これは中年でも起こっていることです。

よくあるのは左遷されるとか。

 

その時点で「これが中年の危機だ」と考えて頑張れる人はいいけど、ここでガタッとくると本当にまいってしまう。

右に行くか左に行くかで結果が大きく変わる。

 

その選択でもっともヒントになるのはその人が何がやりたいか、何が好きか、ということです。

もちろんそのものズバリとはいきませんが、ヒントにはなる。

 

最近、自己実現という言葉が、安易に使われているようですが、単にちょっと好きなことをやってるぐらいが自己実現だと思っている人が多いけど、それは違う

 

自己実現とはもっとわけのわからんものです。

自分では知らなかった自分を見つけることです。

 

サラリーマンにしても、昇進や昇給で自己実現を図ろうとしますが、これはいわば「青年期的」自己実現。

 

中年以後は違う。

左遷や減俸されたら、それはむしろ「知らなかった自分」を見つける機会なんです。

それが見つけられたなら、こちらのほうがもっとすごい自己実現。

もう役職やなんかの問題はずっと小さなことです。

中年世代の中年クライシスは大きなはチャンスでもあるんです。