どうすれば人前で「自分」を出すことができるのか?生きることを楽しむべき!

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こんにちは。「perokun」です。

ありのままの自分では嫌われるという解釈をする人がいますよね?

はずかしがりやの人は、ありのままの自分を屈辱的に解釈している人です。

その人の声が好かれているのに、自分の声が嫌われると解釈する人がいます。

自分の弱点を隠すのではなく、「自分が弱点と思っていること」を隠すのです。

相手はそれを弱点とは思っていません!それが素晴らしいと思っていることもあります!

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本当の自分を隠すことでエネルギーを使い疲れる!

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ジンバルドーは、はずかしがりやの人は実際の自分を知られたら相手は自分のことを嫌いになるだろうと思っている、と説明しています。

まさにこれは、はずかしがりやの人が防衛的性格であることを示しています。

防衛的とは実際の自分を知られないように身構えるということです。

そして最後には自分で自分がわからなくなるのです。

www.vida-museum.com

はずかしがりやの人がことさら失敗を恐れるのも

失敗することで本当の自分がわかってしまうのではないかという恐怖ゆえです。

はずかしがりやの人は、親密になると

実際の自分が相手にわかってしまうのではないかと、親密になることを恐れます。

親密になることを恐れるのはそのまま防衛的性格の特徴でもあるのです。

彼らは実際の自分があらわれることをいつも恐れています。

したがっていつも緊張しているのです。

自分を隠すことにエネルギーを使っているのです。

だから疲れやすい!

外にエネルギーが向かないまま疲れる。

最悪の循環です。

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結果を気にしすぎるから生きることを楽しめない!

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自分の弱点を隠し、すべてのことに批判されまいとして必死に仕事をしている人がいます。

いつも肩に力が入って息苦しい。

なんのための人生かと思われるのです。

このような仕事熱心は息がつまることがあります。

・仕事をすることを楽しめない。

・生きることが楽しくない。

そして、仕事の成果があらわれないとひどく苦しむ

それは、仕事のプロセスを楽しめないからです。

燃え尽きる人はこのような仕事熱心なタイプが多いです。

彼らは無駄が嫌いです。

とにかく無駄が嫌いです。

いつも能率が上がっていないと気が落ちつかない部分があります。

しかし、人生を終わってみれば自分の人生そのものが全体として無駄だったと気づくのではないでしょうか。

人生に無駄なんてないのです。

それがわからないからせっかくの人生を無駄にしてしまうのです。

「人生に無駄なんてない」ということがわかっていないからいつも焦っているのだと思います。

だからいつも何かに追われている感覚に襲われるのです。

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「理想」はあなたが無駄だと思っていることのなかにある!

完全主義の人は無駄を嫌います

しかし、現実には完全主義の人はかえって無駄が多いと思います。

それは完全主義の人がものごとをすべて「かたち」で見るからです。

「かたち」で見るから相手の心をとらえていないのです。

完全主義の人は相手にお金を使います。

相手のためにエネルギーを出すのです。

相手のために時間をとります。

でも「こころ」は与えていない

だから相手に尽くしながらも最後には見捨てられるのだと思います。

そこで「私がこんなに尽くしているのになぜ・・・」と不満を感じるでしょう。

「ひどい人だ」と人間不信になるでしょう。

完全主義の人は無駄ばかりしているのです。

時に、無駄なつきあいのなかに「こころ」があり、それが生きてくることがあるのです。

無駄に見えることを無駄にするか無駄でなくするかは本人しだいなのです。

無駄をかき集めて理想が手に入るなどということは完全主義の人には理解しにくいことなのでしょうね。

失敗は、それに対する対処のしかたで、ただの失敗にもなるし、より大きな成功へのステップになることもあります。

完全主義の人はどちらかというと失敗を失敗にし、無駄を無駄にする。

なぜかというと、生きるバイタリティーがないからだと思います。

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悲観論者はいつまでたっても「素敵な自分」に気づけない!

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完全主義の人は、無駄を嫌いながら最後には人生そのものが無駄としか思えないような生き方をしてしまう場合があります。

アメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーが南アフリカでダイアモンドを掘っている人についてこう話しています。

小さな爪ほどの小石を見つけるために、何トンもの土が取り除かれる。

鉱夫たちはダイアモンドを探しているのであって泥を探しているのではない。

彼らは泥を掘りながら、いつかダアモンドを掘るのだと喜んで泥を掘っている。

彼らは泥という泥を喜んで掘っている。

シーベリーは、人々は日常生活でこの原理を忘れているというのです。

ダイアモンドより泥のほうが多いと嘆く悲観論者を批判しています。

この話のように、日常生活にも肯定的な事実を求めて掘り起こすことが大切です。

ところが、完全主義の人は泥を掘るのは無駄だと思っています。

泥を掘るたびに「またしても泥ばっかりか・・・」とがっかりするでしょう。

そして、はやくダイアモンドを掘りあてたいと焦るのです。

焦ることで疲れる

これも先に述べた燃え尽きタイプです。

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それに対して「こころ」を大切にするタイプの人は、泥を掘りながらもじつは泥を掘っているのではない。

夢を掘っていると感じます。

泥は無駄にもなるし、夢にもなる。

それは掘る人の生きる姿勢でもあります。

泥のなかに夢を見る人は泥を掘りながらも心がときめくのです。

そして掘るときにゆとりがあるのです。

反対に、泥を掘りながら失望する人にはこの心のゆとりがないのです。

私は

無駄を無駄と感じない人は

生きるエネルギーがあふれている人だと思います。

たくましいのです。

完全主義の人は生きるエネルギーが発散できずによどんでしまっている場合があります。

水が流れないでよどんでしまい、腐ってしまうように、生きるエネルギーが外にほとばしり出ない。

完全主義の人は生きるたくましさがない。

極端にいえば、活力のない人である。

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